遅れ先立つほどへずもがな

  きらきら輝き覚えた 君を見上げるように

温暖化でも気候変動でもいいが、議論の前提について

今年は暑い夏でした。
人為的CO2温暖化原因説懐疑派(以下懐疑派)の私であっても、暑いものは暑いのであって、人生うん十年の経験の中で、夏の暑さで死ぬかもと感じたのは初めてのことでした。
最近になって突然「地球沸騰化」の語を目にするようになりましたが、「全球凍結」における赤道付近でも気温が-40℃というのは、同じ程度かそれ以上に恐ろしくもあります。沸騰も凍結も人為的な作用がない時代に起こっているのなら、現在の人為的CO2の寄与度が地球沸騰化に対してどの程度なのか、あるいはそもそも関与しているのかも含めていろいろな可能性を考えておく必要があるでしょう。
上記の観点からは、懐疑派説が正しい場合とノン懐疑派説が正しい場合との2通りの場合についてのシナリオが検討され実行される必要があります。つまりは人為的CO2関与度が0の場合と(0, 1]の場合についての検討がなされるべきであり、結局は[0, 1]の場合について稠密でなくてもよいのですが検討する必要があります。また人為的CO2の寄与度が温暖化効果の内のどれだけであって、もし寄与度1よりも小さい場合(αとする)には、残りの自然寄与度1-αを時間的な要素も含めてどのように扱うのかということと、そもそもすべての温暖化効果によりどの程度の影響があるのかを正確に見極めることの2つを判断し決めておかなければならないはずです。一方でノン懐疑派の主張の骨になっているシミュレーションの曖昧さを勘案すれば、寄与度がいかほどであっても、人類が生物的にも経済的にも存続できる複数のシナリオが現在存在しなければいずれにしても人類のサドンデスが予想されるだけに事態は複雑で深刻です。
ここで言いたいのは、現在の世界の一部が主張しているCO2削減の費用と効果について、全世界の人々の合意が必要なのではないかということです。例え豊かなヨーロッパや一部の人にとっては費用対効果が優れていても、貧しい地域にとって致命的な対策は最終的な方法論として成立しないと思われます。
水素に色をつけることも、発電方式に制限をかけることも、地域間送電線をガラガラでなくすることも、目的は地球全体への影響を考えることなのですから、目的と手段を間違わないようにすべきと考えます。
もし策略ならばもう少し納得性があるものを主張すべきで、信念ならば他との協調をさらに図るべきでしょう。

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