遅れ先立つほどへずもがな

  きらきら輝き覚えた 君を見上げるように

人命とコスト

最近、脱炭素に向けたエネルギー構造転換が進んでいます。ここで問題になるのが、変動が大きい自然エネルギーが供給の大部分を占めるようになったとき、当然需給のバランスが取れずに停電が発生する可能性があることです。年に数度の停電(ただしこのような状態ではかなり多頻度に及ぶ電力使用制限も含まれる)を許容すれば多少現実的なコストでエネルギー構造転換は可能になるかもしれません。需給バランスによる停電は許容できない(雷撃等による偶発事故は除く)ということであれば火力等の既存電源のバックアップは当面継続されるべきであって、新しい需給システム(VRE+BES+DRなどの技術と必要十分な量)が完成するまでの期間はかなりの二重投資が発生することによる固定費の増大と、化石燃料等の価格水準によっては著しい電力(調整)価格(変動費)の高騰というダブルパンチの高費用状態が継続してしまいます。
ここでよく出てくる議論は電力自由化以前の総括原価時代の絶対基準である「停電は人命にかかわるため、絶対発生させてはならない」という理屈であり、感情的にはそこには妥当性があるように感じてしまいそうになります。しかし実際には高すぎるエネルギー費用は産業や国民生活を疲弊させ、しかも脱炭素化に本質的に取り組んでいない国との格差が広がって競争に負けてしまうため、さらに国力に与える影響は甚大になります。
私自身は停電なしにソフトランディングで構造転換を図っていく、そのためにはネットゼロカーボン目標年度ははるか彼方に追いやるか、いっそのことその目標を破棄し、現状維持でいくというのがよいと思っています。
ところで、この命の問題については、現在も続く新型コロナ対応政策の中で、経済の再興のためには多少の死者は許容されるという方法が取られているのですから、これと同じ理屈で考えると「年に数度の停電は許容」という解が普通に演繹されるわけです。異なる部分があるとすれば停電により再興中の経済活動はかなりのダメージを受けるということであって、経済の再興の目的とは相いれない部分があるところです。実は問題の本質は人が死ぬかどうかではなく、儲かるかどうかということであって、財布の懐具合の問題を人間の命の尊厳にすり替えるという狡猾な議論が世間で行われているのが社会公正の概念上許されるのかを一度考えるべきときであるように思われます。

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