遅れ先立つほどへずもがな

  きらきら輝き覚えた 君を見上げるように

最低学力テスト

テレビを点けるとなぜか何局かで高校野球をやっています。あれは一種のインターハイであって、その他の競技種目との間に何か差があるのでしょうか。野球だけが俄然世間の関心事であるように放送していますが、世間の注目度は高くなく、社会的な意味も高くないと私は勝手に想像しています。なぜならもちろん全員ではないけれどおそらく彼らの多くは野球という競技に特化した技能だけしか持たないのであって、いわゆる高等教育を受けた者として社会的使命を果たし貢献する準備ができていないからというのがその理由です。ごく一部の選手はプロとしてエンターテインメントの世界で多少の貢献があるのかもしれませんが、ほとんどの選手(と選手として参加すらしていない関係者)はいったい高等教育の何を学習したということになるのでしょうか。

いやそうではない、彼らも高校生としての学力は当然にあり、たとえエンターテインメントのプロとして活躍することがなくても高等教育を受けた者として社会に貢献できるよというのなら、何らかの証明があった方が議論がしやすいので、ここは一発、高等学校で学んでいる生徒の全員に「最低学力テスト」を毎年次始め頃に行ったらどうかと思うのです。この「最低」が意味するところは、高等学校において高等教育を受ける生徒として当然理解しているべき知識なり能力というということで、何も特別な大学に入るための特殊な勉強をしている学生にしか解けない難題を出題して、どれだけ差があるかを見るということではありません。(そんな勉強をしている高校生など私は見たことも聞いたこともありませんが。)

そして、その試験に合格した人だけが高校生(もちろん1年次から3年次まである)と認め、インターハイやその他の高校生としての活動(運動に限らない)にはこの「高校生」だけが参加できるようにするという、至極尤もなルールを決めたらどうでしょう。

毎年次の最低学力テストに落第している人がその人の通学している高等教育を行う学校でどのように扱われるかは、年次毎に生徒の能力開発段階のスピード差が学校間であるかもしれないのでその生徒が所属する個別の学校に任せればよく、3年次に到達した年度の最初から最後までの好きな時期に「高等教育卒業最低学力テスト」を行い、これをもって高等教育の卒業の権利を得て、かつ当該教育機関において所定の成績を収めて卒業が見込まれた時点(見込みは当該教育機関が認定ないし保証する)でより高等な教育機関である大学への入学試験を受けられるようにしてはどうかと思うのです。

すなわち「高等教育卒業最低学力テスト」に合格しないか、当該教育機関を卒業できないものは大学受験資格がないものとするということです。そうすれば、中学の英数から大学で再教育しなければならないというような信じられない事態は避けられるし、日本の国全体としての教育のレベルとそのあり方についての国民の議論とコンセンサスが形成され、例えば国家予算の教育事業への充当や学生を持つ親への学資補填の妥当性も明確化されるのではないかと思います。

ところでもし楽器が多少使用できるというだけで、いや実はそれしか取り柄がないということで「音楽大学」へ進学した学生がいたとして、それが昨今問題になっている「ギフテッド」に満たない水準だとすると、その学生の通う大学はいわゆる「大学」であるのかということと、その学生は「大学生」であるといっていいのかという問題もあるように思います。単なる「お遊戯をする大幼稚園」という定義があてはまるということはないでしょうか。

まあ、単科大学というのもあるため、その一種なのかもしれませんが、やはり大学というのはある程度研究ができる能力を養うところであって、特定の技能だけしか身につかないとしたら、その技能がいわゆる社会の役に立つレベルの技能ならば「技能学校」、役に立たないものならば「お遊戯学校」という分類にすべきであると考えたり考えなかったりしている今日この頃です。こんなことを考えているのは暑いからかな。

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